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さようなら

10 15, 2018
さようなら

さようなら

ワンピース亡きひとの余白が風に舞う ところでいまはどのあたりかな
あれ飲んでね、どこからか声がして台所の隅でひとり牛乳を飲む
ツツジアジサイヤマボウシもういちど言え言えるならきみのさようなら

      【「短歌人」(2018年10月号)に掲載】 


街 印象

05 26, 2018
きのうとはちがう透視図パースで描かれた街は記憶を圧殺してゆく
万延元年の主婦の店が石棺となりゆく街にも春や立つらん
開くことのない街角のシャッターに春夏冬中の札翳りたる
サン=サーンスながるる街にほのあかき国家ほのぐらき国家の小窓
街。印象。ひと。もどらぬときの刃先エッジ。思い出はハードだ穴もあいている
この街は旅の終わりのはながたみヘテロ接合過去問にはない

街 Photo by K.D.

ふるさとの人形峠にたたずめば少年の日のウランは純情だったな
ねがわくは断捨離としてふるさとの廃家いえを焼べたしご先祖もろとも
わが生のかぎりというはちがう気がしてされど<背中まで四十五分>
入水のゆめのなかばに目覚むればじつにリアルだ野ざらしの骨
スズキです、だなんてなんのつもりだ吉田。この男煮ても焼いてもどうにも。
街頭で紅ひく老女ひとのゆびさきのイケナイ官能はゆたかなるべし
革命は見果てぬゆめか本棚に詩ひとつたせて暮るる党とは


      【「短歌人」 掲載歌ほか】 


春の挨拶(詩)

03 29, 2018
春の挨拶

春の挨拶

「行ってらっしゃい、お元気で」と、
あちらに逝った友人に、
牧歌調の弔辞が送られている。
まるで転勤の挨拶のように。
擬生化?めかした死者への呼びかけ。
実は計算された脱力系の、
ちょっと泣ける反則技。
いっそ「ご自愛を」とでも。

ところで俺にはたとえて、
他者の死を引き受けてこの先、
共に生きつづけようなどと比喩めいた、
ブンガクな思いはありませぬ。
誰であれ、死ねば死にきり。
過不足はない。
重力も感じない。
俺にはぜひ「ご愁傷さま」とだけ。

本日は桜も渾身の満開ぶりで、
旅立つにはお日柄もよく、
絶好の昇天日和です。
ご出棺です!
クラクションに弾かれるように通路が開いて、
それでは、最後のご挨拶を。
「いずれまたどこかで、ご機嫌よう」
さようなら。


お年賀(詩)

01 02, 2018
お年賀


お年賀

お元気でしょうか?
賀状に添えられた手書きの文字の
万感の想いそこだけが湿っている
お元気ですよ!もちろん
鼻血がでるくらい
と、こちらも元気にご返事を差し上げよう

今年こそぜひ・・・
と書きつづけて何年か経った
おそらくこののち
お会いすることもないので
新年のご挨拶はいつも
今生の別れです
きみも花に向かって愛してるよだなんて
のんきなことを言っている場合ではない
生き急がねばならん
走り急がねば

港の見える境内で
きみと並んでパン!と手を打った
で、なにを願い誓ったんだ?
あれもこれもそれもなにもかも
いずれ有効期限三日ほどの
新年の軽いお約束ごとでは
あるんだがね


無題(短歌)

11 21, 2017
はどこからさしてくるのか砂あらば砂のわたくしよろよろと行く
鍵 Photo by K.D.
二0一七年八月六日のまひるまのしずく垂らして蕎麦を喰う
右むけば右に口あく蝉しぐれ あやうし!大日本国語辞典
店長の汗入り餃子が評判の店に<落陽>ながれて止まず
ユキさんの初潮ただしくはじまればO脚閉じて夏はおわりぬ
鍵穴にあわぬ鍵もつ二つ三つ明日なきものと想う日もある

雑踏に手をふるひとが妻となり飯などつくる遠景のまま
縁側でもも剥く妻の首すじに縄目の痕のあやうきまぼろし
夫婦とて過客にすぎぬ、なんて言ってみるかいかなりいい感じだぜ
さてこれは半夜の憑依じゃあるまいな妻ところがる焼酎の壜
ふたりして花の首など刎ねてみる うふふの余白 たがいに告げず
雨のなかきみと見ているレガッタの千年ののちもこの夏はある

      【「短歌人」 掲載歌ほか】 


夏の舌(短歌)

09 02, 2017
夏の舌
ゆうやみに座るひと待つ椅子ひとつ夏の舌などだらんと垂らし
ぬばたまのストロンチウム90の首都はしずかに噎せかえるべし
バスを待つこいびとたちはパラソルにかくれて謀議の予兆に濡れる
はつこいのひとの通夜から戻りきて新月の夜にバットを振れり
あわれ死はいっぽんの茎をめぐるのにご愁傷さまとはわらわせる
彫りあげたほとけをながす夏の川、ながれてゆけよ鰓生えるまで

      【「短歌人」(2017年9月号)に掲載他】 

夏の舌


短歌人2017年1月~6月号より (2)

08 20, 2017
更けて夜の厨にミルク溶かしをりわがちひさなる乳海攪拌(角山 諭)
泣きやまざる児の夜と妻の夜がすこしづつずれはじめてしまふ、てしまふ
抱きゆくかたちをやがて知るときの手習ひにしてモロー反射は
半畳に満たぬ湯舟に浸かりをり湯も児も吾もなべてみづなる
ことばいまだもたぬはゆるみてゐる頬の底ひにかすかひかる沈黙
やがて雨のやうに流れてしまふともこの親しみを感受しており
グライアイの倍の前歯の生え初めて笑むたびに児は白きほほゑみ
暗がりに飲まれてゆくに尻尾だけ不意に際立つ一瞬に遭ふ
吸ひつきていかざる視野を瞬かせ活字は冬の低き雑草
光源のねむるひなかを帰りたりやがては闇に濡れやまぬ街
どこまでも濡れゐて路は靴音と気づきしときの音の歩みよ

「短歌人」2017年1月号~6月号の角山氏の掲載歌より。七首目まではお子さん(あるいはその関わり)を歌ったものをピックアップ。これらは作者の「近頃の主題」のようでもありますが、主題がなんであれ届けたい情報を一首のなかで透かし彫りのように描写し、一首のどこを切り取っても余白が出現するというこの作者独自の方法論はここでも健在です。もっともそのあたりが、時として角山短歌の分かりにくさを指摘される要因になっているようでもありますが、一首目と七首目のように親心を神話(それもかなりホラーチックな)にかける直喩まがいのお茶目?な作品もあって、実は存外サービス精神のある方なのかもしれませんね。
ところでその「近頃の主題」。熱心な角山短歌の読者としては、いささか戸惑いを隠せなかったりします(笑)角山氏の作品に関してはこのブログの別の記事にすでに書いていますが、わたし的には実はそういうことなんですね、今も。氏は「短歌人」の次代を担う歌人としてすでに衆目の一致するところ(と勝手に思う)。そこに留まらないで欲しい(とこれも勝手に思う)。ひとりの読者として期待は大きいです。



男なら(短歌)

08 12, 2017
男なら
たそがれの罰ゲームとして日常はかくも芯まで渇いてゆける
六月はおぼろな楕円、長距離ランナーに垂るる唾液つばと鼻みず
閲兵は捧げ銃立つはつなつの卵黄しずかにくずれてゆけば
男なら髪切るきみの意はしらず橄欖の饐える坂道に来て
折ひとつ提げて路地裏の真くらがり異界の奥から猫が手招く

      【「短歌人」(2017年8月号)に掲載】 

男なら



「ない」の次第(詩)

08 02, 2017
「ない」の次第

もうずいぶん前のことになるが
狂おしいほどの恋をして
傷つけ合い
いがみ合って暮らしてきた
ぼくはきみのすべてを
いとおしいと感じるが
そのすべてが憎しみの
対象であることもある
きみがいない日を考えたことなどないが
ある日は互いのかかわりが
とてつもなく不毛なことだと
想ったりもするのだ
なんだかねじれているね
壊れているね
かといってそこに
矛盾はないんだけどね
おそらく

つくつく法師もヒグラシも
どうしてあんなに哀しい発音を
手にすることができたんだろう
だあれもいない夕暮れの公園で
二人して
蝉の鳴きまねなどしてみた
ぼくはきみの老いてゆく横顔を眺めるのは
嫌いではない
だがひと夏で百年を生きる蝉の
あえかな生涯を
羨ましいと想うことも
ときにないでは
ないな

「ない」の次第


ならずもの(短歌)

07 18, 2017
ならずもの
大衆とうカテゴリを生きてみぞおちに入りたる憂国ならずものの一撃
いちめんにさくら散りしく河畔にて散華にみあう祖国はもたず
満開のさくらに滾る情念は偽文化風モツ鍋であるよ
おせっかいの<いいね!>をポチれば幻想は非言語的共同の井戸にあふる
人生はたとえて序破急であるらしも髭剃る半夜はなぜかせつない
厨房で妻なるひとが刃物研ぐ詐術のごとき十指のあやかし
酒呑めば形而下的混沌にウィトゲンシュタインのはしごはかかる
四月このほのぐらき淵にたたずめば熱ある身体それはただのかぎろい
      【「短歌人」2017年3月~7月号掲載歌より】

ライパチの戦いすんでゆうぐれのSHIMANOのギアは月より重い

ならずもの

写真は、地元高校の夏の甲子園地方大会一回戦より。その一回戦の突破がままならないチームにも、試合開始前のダッシュに青春の熱量は臨界いっぱいに滾る。かつて草野球で白球に翻弄されつづけたライパチ(守備位置ライトで打順は8番。草野球で一番下手な選手の代名詞だそうな)の私でも、この瞬間だけはなぜか勝利への確信を共有できたのでした。今は昔。もう白球の(悪)夢を見ることさえないが。

短歌人2017年1月~6月号より (1)

07 09, 2017
食卓で話かければおもむろに「ウザい」と言はれて父は嬉しい(桑原 憂太郎)
見ててごらんあの分かれ道ワタクシは淋しいほうを選んじゃうから
バンドエイド頬に貼られて少年は鏡の中の他者に出会いぬ
黄昏はしずもりてゆきもう一度抱きしめるため美術館を訪う
名画とは「マル秘色情めす市場」ネットで観ることのできた喜び
黒柳徹子はアンドロイドだと耳打ちされたらもう信じちゃう
右腕にリストカットの痕のある泡姫のその痕ばかり舐める
バツイチの四十前のおっさんに恋した女と親戚になる

「短歌人」2017年1月号~6月号の桑原氏の掲載歌より。ズレている、というかズラされる。作者は多分大真面目に詠んでいる、と思わされた時点でそのズレの術中に嵌る。いわば緊縛の脱力系短歌?

鬼 灯(詩)

05 23, 2017
鬼 灯

生まれたときから
生涯のようなものを背負い
少年は十五歳で
老人となった

犬を捨てに行ってくる
そう言い残したまま少年は
家を出た
つぎはぎだらけの詰襟に
学生帽を被り
夕暮れの校舎の
錆びついた半開きの窓から
放尿する姿を見られたのが
最後となった
それからほどなく
犬の死体は天神川であがり
少年はそのまま
もう何十年も戻らない

ある朝には蝉時雨が止む
鬼灯の果肉が腐乱する
飼いならした昆虫には
無数の蟻が群れあふれる
深閑とした森を泳ぐ人の影も
やがては葉脈のなかに溶けて
すべての時間には予め
約束された終わりがあることを
不覚にも
何十年もかけて
わたしは知るのだ



鬼灯

生も死もメタファーとなるその刹那、少年は掃き溜めの芥と眠る

オカンとさくら(詩)

04 12, 2017
オカンとさくら

オカンとさくら Photo by K.D.

このあいだ九州あたりで
足踏みしていたさくらの便りが
きょうは大阪城の本丸を
駆けあがってくる
ここは駅舎のホームだというのに
肉を焦がすにおいがあたりを席巻し
こぎたないカウンターのむこうでは
<二度漬け禁止!>のコンプラを
名物オカンが吠えまくる
さくらとなんの関係が?
ベタな天の配剤というほかに
なんの関係も見い出せない二度漬け禁止のメタファーが
前線という名のさくらの花の
満開の狂気とオカンの侠気との
しあわせな焼肉的関係性に濡れまくる
さすれば・・・と
摩ればさくらの花いくさ
境内のおおきなさくらの木に
ぶらんと吊り下がった首 あれは
少年のころの夢だったのかしらん
そいつは蓑虫のように
光と影のはざ間にゆれて
夢のなかで気がつけば
首吊りのさくらの散りゆく五弁に
いつもいかされるのだった
こうべを垂れてきわめて厳粛に
いかされるままに焼肉の
形而下的混沌を飲み込むのだった
やくざなこのご時勢に
二度漬け禁止の鉄槌を下しに行こう
止めてくれるなよオカン
ならぬ堪忍するのがヒーローなら
さくらの慟哭で股間がふくらむのは
むしろトーゼンだと観念する
だから鍵のかからぬオカンの店のトイレで
こっそり焼肉を反吐するヒーローの
孤独なシルエットに降りそそぐ
さくらの異様は
とても美しい
実に怖ろしい
なにやら哀しい
おあいそ!
バシッとテーブルを叩けば
言っとくけどマジやでオレは
疾走する前線は
この先鳥取道を一気に北上し
打吹うつぶき公園に狂い咲く
千本さくらあたりで散りいそぐ
‘残りなく 散るぞめでたき 桜花’
そのいさぎよさや 良し
オレもそこで散ってみせるぜ
おめでたいいさぎよさなんて
ニッポンチャチャチャ
もとよりないけど

‘残りなく 散るぞめでたき 桜花 ありて世の中 はての憂ければ’(古今和歌集 読人知らず)



オカンとさくら2
                           打吹公園のさくら(鳥取県倉吉市)
満開のアクメに口開くさくら花、割腹、斬首、ニッポンチャチャチャ

旅にしあれば (短歌)

02 24, 2017
旅にしあれば
きみとぼくにくしみは今朝も対生の葉序のごとく生えてしずもる
きみのうちまたにあるふたつのほくろ過ぎし日の蹉跌はやさしくはない
過ぎし日のラヴレターから滲み出すエクスタシーの解なき記憶
暴力はエクスタシーとも読む 緩らかな情事の後に吊るすサーカス
ふりむけばきみではないきみぼくではないぼくの非在にはつか戦慄く
密告、と思わば留守電の点滅ランプはなにやらはなやぐ
五十六葉のクローバーあるらしも、DNRでうっちゃってくれ
不覚にも花脊峠でおんな蛇 粘液のごとく吐き出されてわたしは
詩の無力、言ってみれば踏みはずした土足の痕にたかだかすぎぬか
切れば血のでる言葉に昂りしかばあびた返り血ひとりでぬぐえ
捨てるたび生まれる言葉ことごとく馬に喰わせて馬は愛さず
存じ上げぬが興味はつきぬ罫線をはみだす 草々 安部マリア 拝
二児の父、あの日からのわがゆくたてに必要ならばDeleteキーを
鳥ほどの自由さはない、風もベタだ、つげ式の冬の旅にしあれば

      【「短歌人」2017年1月及び2月号掲載歌 他】

旅にしあれば Photo by K.D.

2016年 短歌人より

01 22, 2017
「短歌人」2016年各号から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

【2016年 歌誌「短歌人」より】
くるしみのくの字のようにくを画けば腰より折れてくくくと震える(藤井 良幸/1月)
歳晩の自治会室に民主的学生言ひき「先づトロをれ」(斎藤 寛/3月)
沈黙は異界に届く響きなりかたき更湯にオイルを垂らす(三島 麻亜子/6月)
ワイパーは雨か雪だろ泥とかさ普通かぶるか国道で波(阿部 久美/1月)
えのき茸ほとけのごとく立ちならぶひと株を裂く夕餉の鍋に(内山 昌太/10月)
シャツを着るひとの動きのなめらかにあるいはとびきりの禍事のやう(西村 美佐子/11月)
猫二匹あらば「愛国」、「売国」と名付けて遊ぶ 遊民なれば(藤原 龍一郎/8月)
東方イーストと呼べばはるかな殺人にふるへる朝に鶏卵を置く(柏木 みどり/9月)
児の産めぬ齢となりて思うこと何や人ならぬものぞ生まれむと(海棠 みどり/9月)
火の上に自在鉤なる物ありて魚焦がさるる森の花冷え(西王 燦/6月)
風葬の村の話を思ひ出づ棺を挽かねば挽歌も無きか(藤田 初枝/4月)
ゆふぐれの櫛よ見しまま語るなよゆめゆめゆめに拾はれしまま(西橋 美保/4月)
永らえるかつての春の夕ぐれに小沢昭一の小沢昭一的こころ(谷村 はるか/5月)
パスワードめきて12w5dと解くべからざる時は垂りつつ(角山 諭/7月)

2016年短歌人 Photo by K.D.

【自薦五首】
その出自、熱ある階級、地下道に旗枯れるまでのわがシルエット(7月)
稲田に佇つあなたはひとのものなれば 青年の日の夏の手をふる(9月)
境涯をリアルにさばいたあとに喰う海辺の駅の蕎麦はのびてる(12月)
左向け右にえびぞる祖国は濡れていのちのようなあすなど来ない(3月)
欠落の日のひとしきりをまどろめば<蒼ざめた馬>は来て水を飲む(11月)


恋愛講座(詩)

01 02, 2017
恋愛講座

ぼくについて語ることはしない
知って欲しいことなんて
おそらくはなにもないしね
純喫茶ルフランの二階から
街路を吹きぬける風が運んできた
まだ浅い冬の軌跡を眺めながら
それにしても・・・・
きみはよく喋る
さっきから口角にはみ出した
ルージュのどぎつい赤色もかなり
気になってはいるんだけど

あれからぼくらは
生煮えの愛や恋の後に
憎だの獄だのを送って
ねじれたアンビバレンツを愉しんだりもした
ふたりを駆り立てているものがなんであれ
この世の情のしくみは驚くほど単純シンプル
読みかけの本の
最後のページをのぞき見するように
真夜中にそっと開く
切なさ満載の処方箋には
解のないエクスタシーの記憶が
だまし絵のように描かれている
だけなのかもしれないのだ

色恋は詩ではなく
散文だそれもずいぶん悪筆の
とだれかが言ったか
言わなかったか
だったらときには
さよならだけじゃない挨拶を
送ってみることにしよう
退屈な日常にあふれかえる
窮屈な言葉の行間に耳をすまし
その息遣いの戦ぎのえいえんを
きっとどこかで聴いているはずの
実はまだ見知らぬ
本当の
ぼくらへ


恋愛講座 Photo by K.D.




 このようなふやけた詩を書いた後に、谷川俊太郎の恋愛に材を取ったいくつかの作品を読みかえしてみると、詩としての日本語を自在に操る彼の、職人的な練達の技にたじろぎます。それは<詩でメシを喰っている>彼しか到達できない、空前にして絶後の世界です。
 恋愛詩は、現実と虚構の往還をわたる言葉のスリリングな匙加減を密かに愉しむもので、ある意味悪党にしか書けないものなのかもしれないな、と人生の黄昏に至ってようやくに思うわけです。もちろんこの場合の悪党は、文学的な比喩としての憧憬の別名でもあるわけですが(比喩として適切かどうか自信がありませんが、まあそんなところです)、では谷川俊太郎は悪党なのか。あの超絶技巧にからめ取られると、わたし的にはそうとしか思えないですね。



短歌人2016年12月号より

12 20, 2016
「短歌人 2016年12月号」から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

ゆくまへになにかことばを告げたまへよすがに抱いて暮らせるやうな(阿部 久美)
いのち落つるときはたちまち九仞の功をいつきにかくごとくなり(有沢 螢)
ひらがなや蜜の吸ひかた教はりし夕日をしまふためのひだりめ(かかり 真魚)
過呼吸が宵から夜へゆく時のこのいとおしい手の中の闇(高良 俊礼)
生と死を隔てるために打ちつける釘はわづかに光りてありき(原田 千万)
げにとほき海王星もまはれるにけふ煮凝りのやうなるこころ(宮澤 麻衣子)
骨ばった手を握ったらどれもどれもスイッチみたいでぜんぶ押したい(砺波 湊)
身ごもりに熱ありし記憶うつろひの下肢に打ちつく長月の雨(柘植 周子)

はじまり呼吸は滴のやうな垂直の言葉ポエジーでありぬ 胸を下りぬ(西村 美佐子)
一行のなかほどあたり「せ」の文字がああ、やんちやすぎるでせう。
執拗に絡まむと喘ぐ妄想に詩句の余白はひどく汚れて
ためらひもなきこの一冊の美しさ 時間のひかりに置き去りの
なぜならむとどまるらしき風ありてたはむれてをり髪にしばらく
西村氏の作品。ここに詠まれているのが仮に、短歌的文脈への違背ないしはその解体を意図して、三十一音を言葉の生理としての意味性から解放しようとする試みだとすると、一字空けや句読点、ルビの選択、意味の切断と転換、暗示と象徴性などそれはほとんど詩の領域なので、読者としては作品がそれでもなお定型にとどまっている理由を考えないわけにはいかない。詩的レトリックを短歌のレトリックのうちに回収しようとするとき(あるいはその逆かも)、言葉はどこまでポエジーとして機能するのか。一歩間違うと方法論の袋小路に入ってしまいかねない危うさと、重層するイメージのきつい圧縮に、どの作品の読みも素人の私には相当厄介です。だが誰のものでもないその人だけの短歌アルチザン(←誤用ではありません)のロールモデルのひとつが、ここには確実にあるような気も致します。歌集も出ているようなので、一度読んでみないといけませんね。

ふたつの詩型(中山郁子の短歌と詩)

12 10, 2016
 北鎌倉橋ある川に橋ありて橋あれば橋 橋なくば川(石原 吉郎)
 石原吉郎は敗戦後、ソビエトのラーゲリにおける過酷な抑留体験をバックボーンに、「サンチョ・パンサの帰郷」をはじめとする衝撃的な詩作品で、戦後詩に一時代を劃した詩人です。その彼が晩年になって短歌を詠み始めますが、それを指して関川夏生は『現代短歌そのこころみ』のなかで、「なぜ現代詩人が晩年に至って短歌をつくったか。短歌には病んだ精神を吸引する力量があるのか。定型の不自由さのなかにこそ自由を見るのか。あるいは、遺書や辞世の文字にふさわしい本質的ななにものかを、短歌は内包しているということか」と実に厄介な問いを投げかけています。これはもちろん石原吉郎そのひとに対する問いかけなのですが、これを私じしんへ引き込んで読んでみると存外正鵠を得た問いかけになっているかもしれないな、と思ったりしたのです。もっともそれらは私のなかでいまだ漠然としていて、よどみのない回答を提示することはできない。ところで中ほどに出てくる「定型の不自由さのなかにこそ自由を見る」という指摘。文学の言葉としてはかなり美味しいパラドックスを内包しています。ラーゲリの強制された日常のなかで自由を希求し生き延びた石原が、このねじれた問いを動機づけのひとつにして短歌をつくったとしても不思議ではありません。だがそのパラドックスは私のものではない。石原のような体験を持たず晩年になって唐突に短歌を詠み始めた私にとっては、「定型」に「自由」を見るのは単なるレトリックの域を出ない不遜な考え方のようにも思えます。ではなぜ私は詩(自由な詩型)から短歌(不自由な定型)への回廊を渡ろうとするのか。詩とは異なる技法でもってする緊縛の三十一文字が幻視する凝縮された世界観へのあくがれのようなものが、詩型の不自由さ(自由さ)を越えて私を短歌に向かわせる、とカッコよく言えばなにかを言ったことになるのかな。いずれにしても大した動機とも思えないけど(笑)

 以下は歌人であり、詩人でもある中山郁子さん(面識がありませんので詳細はつまびらかではない)の作品から。ふたつの詩型を同時に生きる人。あえて解説は省きたい。この世界、おおかたは仲間褒めと凭れ合いのヒエラルキーで成り立っているとはいえ、このクオリティ、埋もれてしまうのは惜しい。



 
 うたのため恋欲ると我が言いしかば君はどうするさびしいと言え
 夢繰りの後のまひるをしずもれる父よ最もさびしき阿修羅
 昏ければ揺り燃えたたす火もなくて夜半眠らずにいる青葉梟
 海に往く途上に死にし者たちのすえと思えりひとりの我を
 目の前を通りすぎたる花神いてこの夕刻のかすかなる飢え
 青白く透き通りたる陰茎の閉じたり少年は少年のまま
 庇われて我はあらざり前線の兵士のごとく下着つけてゆく
 君を殺して詩を作ろうかぐらぐらと蟹は朱色に茹であげて待つ

歌集「スパゲティシンドローム」より(ながらみ書房)

  
 ヴォカリーズ

 死体からは石鹸の匂いがした
 もう誰も愛することもなくなった性器を
 白い布で丹念に拭いた
 安らかな死顔はおもかげとして
 幾度も顕ち現れるのですと
 看護学生に説いた
 すると愛くるしい瞳を見開いて
 学生はこう言ったのだ
 「まだ何も喪ったことがないのです」
 と
 わたくしの脳裏に野のように広がってゆく
 父の死面デスマスク
 在るということの重さと
 無いということの重さに
 等分に引き裂かれて
 心は狼煙のように空へかえってゆく
 喪うことが
 生きることだなどと
 思い始めたのはいつからであったのか
 水仙のようにまっすぐ伸びた君の肢体から
 「まだ何も産んだことがないのです」と
 恥じらうように春の気配がこぼれた。

詩集「挨拶」より(丸善名古屋出版サービスセンター)



俺に聞くなよ(短歌)

12 04, 2016
俺に聞くなよ
きのうきょう羞明ひどくあらがいて眼窩くぼみをあらう真水が痛い
そのひとの名を呼んでさよならって言って花を刎ねれば赤い血は流れる
血縁のパラドックスを脱ぎすててそれがどうした? 俺に聞くなよ
境涯をリアルにさばいたあとに喰う海辺の駅の蕎麦はのびてる

      【「短歌人」(2016年12月号)に掲載】

  俺に聞くなよ



短歌人2016年11月号より

11 27, 2016
「短歌人 2016年11月号」から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

ゆふぐれの櫛よ見しまま語るなよゆめゆめゆめに拾はれしまま(西橋 美保)
シャツを着るひとの動きのなめらかにあるいはとびきりの禍事のやう(西村 美佐子)
今日の憂さ昨日の憂さとかさなりて耳のみに聴くカルミナ・ブラーナ(三島 麻亜子)
されど夏 水際ゆけばなかぞらに小さき口もつ虫たかりたり(藤井 良幸)
熊蝉の鳴きゐるみちに入りしよりいつしかに音そのものが鳴く(角山 諭)
虚船からぶねの漂ふ沖に紅鶴を群れ渡らしむわがデカダンス(阿部 久美)
泥ひぢの汚す裳裾のあやふさに堕ちてゆくみゆ秋にゐる蝶

いずれもすべるような言葉の集積と展開に、心象を穿つ喩のリアリティは顕つ、なぁんてまるで安ぽい帯文(キャッチコピー)のようだ。どうもいまだに「一首評」とやらに馴染めない。本当に気に入った一首は、ある時間軸(わけても青春の一時期)のなかで自分の生活と深く切り結んだ記憶として残っており、今でも諳んじることが出来ます。そこに批評としての視点はありません。
  凶行の愉しみ知らねばむなしからむ死して金棺に横たはるとも(春日井 健)
  帰るとは幻ならむ麦の香の熟るる谷間にいくたびか問ふ(前 登志夫)
  ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車( 福島 泰樹)
短歌は気合で読む。その佇まいを読む。どこで自分の心象にクリンチされているかを読む。学校のお勉強の延長のような読み合いなぞは疲れる。所詮短歌も詩もアマチュアには「業余のすさび籠枕」です。家族からはボケ防止の自己啓発くらいにしか思われていない(笑) だから読むことをもっと愉しみたいわけですね。従ってこのブログの好歌選を支配しているのは、「なんだかよく分からないがオレは好きだ」という単なる短歌アマチュア的なファン心理にすぎません。

**UP後に一部加筆しました**
プロフィール

松岡 修二

Author:松岡 修二
   
2014年より「短歌人会」所属

(記事に無関係なものなど、管理人の判断で承認外となるコメントもあります)

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