短歌人2017年1月~6月号より (2)

08 20, 2017
更けて夜の厨にミルク溶かしをりわがちひさなる乳海攪拌(角山 諭)
泣きやまざる児の夜と妻の夜がすこしづつずれはじめてしまふ、てしまふ
抱きゆくかたちをやがて知るときの手習ひにしてモロー反射は
半畳に満たぬ湯舟に浸かりをり湯も児も吾もなべてみづなる
ことばいまだもたぬはゆるみてゐる頬の底ひにかすかひかる沈黙
やがて雨のやうに流れてしまふともこの親しみを感受しており
グライアイの倍の前歯の生え初めて笑むたびに児は白きほほゑみ
暗がりに飲まれてゆくに尻尾だけ不意に際立つ一瞬に遭ふ
吸ひつきていかざる視野を瞬かせ活字は冬の低き雑草
光源のねむるひなかを帰りたりやがては闇に濡れやまぬ街
どこまでも濡れゐて路は靴音と気づきしときの音の歩みよ

「短歌人」2017年1月号~6月号の角山氏の掲載歌より。七首目まではお子さん(あるいはその関わり)を歌ったものをピックアップ。これらは作者の「近頃の主題」のようでもありますが、主題がなんであれ届けたい情報を一首のなかで透かし彫りのように描写し、一首のどこを切り取っても余白が出現するというこの作者独自の方法論はここでも健在です。もっともそのあたりが、時として角山短歌の分かりにくさを指摘される要因になっているようでもありますが、一首目と七首目のように親心を神話(それもかなりホラーチックな)にかける直喩まがいのお茶目?な作品もあって、実は存外サービス精神のある方なのかもしれませんね。
ところでその「近頃の主題」。熱心な角山短歌の読者としては、いささか戸惑いを隠せなかったりします(笑)角山氏の作品に関してはこのブログの別の記事にすでに書いていますが、わたし的には実はそういうことなんですね、今も。氏は「短歌人」の次代を担う歌人としてすでに衆目の一致するところ(と勝手に思う)。そこに留まらないで欲しい(とこれも勝手に思う)。ひとりの読者として期待は大きいです。



男なら(短歌)

08 12, 2017
男なら
たそがれの罰ゲームとして日常はかくも芯まで渇いてゆける
六月はおぼろな楕円、長距離ランナーに垂るる唾液つばと鼻みず
閲兵は捧げ銃立つはつなつの卵黄しずかにくずれてゆけば
男なら髪切るきみの意はしらず橄欖の饐える坂道に来て
折ひとつ提げて路地裏の真くらがり異界の奥から猫が手招く

      【「短歌人」(2017年8月号)に掲載】 

男なら



ならずもの(短歌)

07 18, 2017
ならずもの
大衆とうカテゴリを生きてみぞおちに入りたる憂国ならずものの一撃
いちめんにさくら散りしく河畔にて散華にみあう祖国はもたず
満開のさくらに滾る情念は偽文化風モツ鍋であるよ
おせっかいの<いいね!>をポチれば幻想は非言語的共同の井戸にあふる
人生はたとえて序破急であるらしも髭剃る半夜はなぜかせつない
厨房で妻なるひとが刃物研ぐ詐術のごとき十指のあやかし
酒呑めば形而下的混沌にウィトゲンシュタインのはしごはかかる
四月このほのぐらき淵にたたずめば熱ある身体それはただのかぎろい
      【「短歌人」2017年3月~7月号掲載歌より】

ライパチの戦いすんでゆうぐれのSHIMANOのギアは月より重い

ならずもの

写真は、地元高校の夏の甲子園地方大会一回戦より。その一回戦の突破がままならないチームにも、試合開始前のダッシュに青春の熱量は臨界いっぱいに滾る。かつて草野球で白球に翻弄されつづけたライパチ(守備位置ライトで打順は8番。草野球で一番下手な選手の代名詞だそうな)の私でも、この瞬間だけはなぜか勝利への確信を共有できたのでした。今は昔。もう白球の(悪)夢を見ることさえないが。

短歌人2017年1月~6月号より (1)

07 09, 2017
食卓で話かければおもむろに「ウザい」と言はれて父は嬉しい(桑原 憂太郎)
見ててごらんあの分かれ道ワタクシは淋しいほうを選んじゃうから
バンドエイド頬に貼られて少年は鏡の中の他者に出会いぬ
黄昏はしずもりてゆきもう一度抱きしめるため美術館を訪う
名画とは「マル秘色情めす市場」ネットで観ることのできた喜び
黒柳徹子はアンドロイドだと耳打ちされたらもう信じちゃう
右腕にリストカットの痕のある泡姫のその痕ばかり舐める
バツイチの四十前のおっさんに恋した女と親戚になる

「短歌人」2017年1月号~6月号の桑原氏の掲載歌より。ズレている、というかズラされる。作者は多分大真面目に詠んでいる、と思わされた時点でそのズレの術中に嵌る。いわば緊縛の脱力系短歌?

鬼 灯(詩)

05 23, 2017
鬼 灯

生まれたときから
生涯のようなものを背負い
少年は十五歳で
老人となった

犬を捨てに行ってくる
そう言い残したまま少年は
家を出た
つぎはぎだらけの詰襟に
学生帽を被り
夕暮れの校舎の
錆びついた半開きの窓から
放尿する姿を見られたのが
最後となった
それからほどなく
犬の死体は天神川であがり
少年はそのまま
もう何十年も戻らない

ある朝には蝉時雨が止む
鬼灯の果肉が腐乱する
飼いならした昆虫には
無数の蟻が群れあふれる
深閑とした森を泳ぐ人の影も
やがては葉脈のなかに溶けて
すべての時間には予め
約束された終わりがあることを
不覚にも
何十年もかけて
わたしは知るのだ



鬼灯

生も死もメタファーとなるその刹那、少年は掃き溜めの芥と眠る

オカンとさくら(詩)

04 12, 2017
オカンとさくら

オカンとさくら Photo by K.D.

このあいだ九州あたりで
足踏みしていたさくらの便りが
きょうは大阪城の本丸を
駆けあがってくる
ここは駅舎のホームだというのに
肉を焦がすにおいがあたりを席巻し
こぎたないカウンターのむこうでは
<二度漬け禁止!>のコンプラを
名物オカンが吠えまくる
さくらとなんの関係が?
ベタな天の配剤というほかに
なんの関係も見い出せない二度漬け禁止のメタファーが
前線という名のさくらの花の
満開の狂気とオカンの侠気との
しあわせな焼肉的関係性に濡れまくる
さすれば・・・と
摩ればさくらの花いくさ
境内のおおきなさくらの木に
ぶらんと吊り下がった首 あれは
少年のころの夢だったのかしらん
そいつは蓑虫のように
光と影のはざ間にゆれて
夢のなかで気がつけば
首吊りのさくらの散りゆく五弁に
いつもいかされるのだった
こうべを垂れてきわめて厳粛に
いかされるままに焼肉の
形而下的混沌を飲み込むのだった
やくざなこのご時勢に
二度漬け禁止の鉄槌を下しに行こう
止めてくれるなよオカン
ならぬ堪忍するのがヒーローなら
さくらの慟哭で股間がふくらむのは
むしろトーゼンだと観念する
だから鍵のかからぬオカンの店のトイレで
こっそり焼肉を反吐するヒーローの
孤独なシルエットに降りそそぐ
さくらの異様は
とても美しい
実に怖ろしい
なにやら哀しい
おあいそ!
バシッとテーブルを叩けば
言っとくけどマジやでオレは
疾走する前線は
この先鳥取道を一気に北上し
打吹うつぶき公園に狂い咲く
千本さくらあたりで散りいそぐ
‘残りなく 散るぞめでたき 桜花’
そのいさぎよさや 良し
オレもそこで散ってみせるぜ
おめでたいいさぎよさなんて
ニッポンチャチャチャ
もとよりないけど

‘残りなく 散るぞめでたき 桜花 ありて世の中 はての憂ければ’(古今和歌集 読人知らず)



オカンとさくら2
                           打吹公園のさくら(鳥取県倉吉市)
満開のアクメに口開くさくら花、割腹、斬首、ニッポンチャチャチャ

旅にしあれば (短歌)

02 24, 2017
旅にしあれば
きみとぼくにくしみは今朝も対生の葉序のごとく生えてしずもる
きみのうちまたにあるふたつのほくろ過ぎし日の蹉跌はやさしくはない
過ぎし日のラヴレターから滲み出すエクスタシーの解なき記憶
暴力はエクスタシーとも読む 緩らかな情事の後に吊るすサーカス
ふりむけばきみではないきみぼくではないぼくの非在にはつか戦慄く
密告、と思わば留守電の点滅ランプはなにやらはなやぐ
五十六葉のクローバーあるらしも、DNRでうっちゃってくれ
不覚にも花脊峠でおんな蛇 粘液のごとく吐き出されてわたしは
詩の無力、言ってみれば踏みはずした土足の痕にたかだかすぎぬか
切れば血のでる言葉に昂りしかばあびた返り血ひとりでぬぐえ
捨てるたび生まれる言葉ことごとく馬に喰わせて馬は愛さず
存じ上げぬが興味はつきぬ罫線をはみだす 草々 安部マリア 拝
二児の父、あの日からのわがゆくたてに必要ならばDeleteキーを
鳥ほどの自由さはない、風もベタだ、つげ式の冬の旅にしあれば

      【「短歌人」2017年1月及び2月号掲載歌 他】

旅にしあれば Photo by K.D.

2016年 短歌人より

01 22, 2017
「短歌人」2016年各号から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

【2016年 歌誌「短歌人」より】
くるしみのくの字のようにくを画けば腰より折れてくくくと震える(藤井 良幸/1月)
歳晩の自治会室に民主的学生言ひき「先づトロをれ」(斎藤 寛/3月)
沈黙は異界に届く響きなりかたき更湯にオイルを垂らす(三島 麻亜子/6月)
ワイパーは雨か雪だろ泥とかさ普通かぶるか国道で波(阿部 久美/1月)
えのき茸ほとけのごとく立ちならぶひと株を裂く夕餉の鍋に(内山 昌太/10月)
シャツを着るひとの動きのなめらかにあるいはとびきりの禍事のやう(西村 美佐子/11月)
猫二匹あらば「愛国」、「売国」と名付けて遊ぶ 遊民なれば(藤原 龍一郎/8月)
東方イーストと呼べばはるかな殺人にふるへる朝に鶏卵を置く(柏木 みどり/9月)
児の産めぬ齢となりて思うこと何や人ならぬものぞ生まれむと(海棠 みどり/9月)
火の上に自在鉤なる物ありて魚焦がさるる森の花冷え(西王 燦/6月)
風葬の村の話を思ひ出づ棺を挽かねば挽歌も無きか(藤田 初枝/4月)
ゆふぐれの櫛よ見しまま語るなよゆめゆめゆめに拾はれしまま(西橋 美保/4月)
永らえるかつての春の夕ぐれに小沢昭一の小沢昭一的こころ(谷村 はるか/5月)
パスワードめきて12w5dと解くべからざる時は垂りつつ(角山 諭/7月)

2016年短歌人 Photo by K.D.

【自薦五首】
その出自、熱ある階級、地下道に旗枯れるまでのわがシルエット(7月)
稲田に佇つあなたはひとのものなれば 青年の日の夏の手をふる(9月)
境涯をリアルにさばいたあとに喰う海辺の駅の蕎麦はのびてる(12月)
左向け右にえびぞる祖国は濡れていのちのようなあすなど来ない(3月)
欠落の日のひとしきりをまどろめば<蒼ざめた馬>は来て水を飲む(11月)


恋愛講座(詩)

01 02, 2017
恋愛講座

ぼくについて語ることはしない
知って欲しいことなんて
おそらくはなにもないしね
純喫茶ルフランの二階から
街路を吹きぬける風が運んできた
まだ浅い冬の軌跡を眺めながら
それにしても・・・・
きみはよく喋る
さっきから口角にはみ出した
ルージュのどぎつい赤色もかなり
気になってはいるんだけど

あれからぼくらは
生煮えの愛や恋の後に
憎だの獄だのを送って
ねじれたアンビバレンツを愉しんだりもした
ふたりを駆り立てているものがなんであれ
この世の情のしくみは驚くほど単純シンプル
読みかけの本の
最後のページをのぞき見するように
真夜中にそっと開く
切なさ満載の処方箋には
解のないエクスタシーの記憶が
だまし絵のように描かれている
だけなのかもしれないのだ

色恋は詩ではなく
散文だそれもずいぶん悪筆の
とだれかが言ったか
言わなかったか
だったらときには
さよならだけじゃない挨拶を
送ってみることにしよう
退屈な日常にあふれかえる
窮屈な言葉の行間に耳をすまし
その息遣いの戦ぎのえいえんを
きっとどこかで聴いているはずの
実はまだ見知らぬ
本当の
ぼくらへ


恋愛講座 Photo by K.D.




 このようなふやけた詩を書いた後に、谷川俊太郎の恋愛に材を取ったいくつかの作品を読みかえしてみると、詩としての日本語を自在に操る彼の、職人的な練達の技にたじろぎます。それは<詩でメシを喰っている>彼しか到達できない、空前にして絶後の世界です。
 恋愛詩は、現実と虚構の往還をわたる言葉のスリリングな匙加減を密かに愉しむもので、ある意味悪党にしか書けないものなのかもしれないな、と人生の黄昏に至ってようやくに思うわけです。もちろんこの場合の悪党は、文学的な比喩としての憧憬の別名でもあるわけですが(比喩として適切かどうか自信がありませんが、まあそんなところです)、では谷川俊太郎は悪党なのか。あの超絶技巧にからめ取られると、わたし的にはそうとしか思えないですね。



短歌人2016年12月号より

12 20, 2016
「短歌人 2016年12月号」から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

ゆくまへになにかことばを告げたまへよすがに抱いて暮らせるやうな(阿部 久美)
いのち落つるときはたちまち九仞の功をいつきにかくごとくなり(有沢 螢)
ひらがなや蜜の吸ひかた教はりし夕日をしまふためのひだりめ(かかり 真魚)
過呼吸が宵から夜へゆく時のこのいとおしい手の中の闇(高良 俊礼)
生と死を隔てるために打ちつける釘はわづかに光りてありき(原田 千万)
げにとほき海王星もまはれるにけふ煮凝りのやうなるこころ(宮澤 麻衣子)
骨ばった手を握ったらどれもどれもスイッチみたいでぜんぶ押したい(砺波 湊)
身ごもりに熱ありし記憶うつろひの下肢に打ちつく長月の雨(柘植 周子)

はじまり呼吸は滴のやうな垂直の言葉ポエジーでありぬ 胸を下りぬ(西村 美佐子)
一行のなかほどあたり「せ」の文字がああ、やんちやすぎるでせう。
執拗に絡まむと喘ぐ妄想に詩句の余白はひどく汚れて
ためらひもなきこの一冊の美しさ 時間のひかりに置き去りの
なぜならむとどまるらしき風ありてたはむれてをり髪にしばらく
西村氏の作品。ここに詠まれているのが仮に、短歌的文脈への違背ないしはその解体を意図して、三十一音を言葉の生理としての意味性から解放しようとする試みだとすると、一字空けや句読点、ルビの選択、意味の切断と転換、暗示と象徴性などそれはほとんど詩の領域なので、読者としては作品がそれでもなお定型にとどまっている理由を考えないわけにはいかない。詩的レトリックを短歌のレトリックのうちに回収しようとするとき(あるいはその逆かも)、言葉はどこまでポエジーとして機能するのか。一歩間違うと方法論の袋小路に入ってしまいかねない危うさと、重層するイメージのきつい圧縮に、どの作品の読みも素人の私には相当厄介です。だが誰のものでもないその人だけの短歌アルチザン(←誤用ではありません)のロールモデルのひとつが、ここには確実にあるような気も致します。歌集も出ているようなので、一度読んでみないといけませんね。

ふたつの詩型(中山郁子の短歌と詩)

12 10, 2016
 北鎌倉橋ある川に橋ありて橋あれば橋 橋なくば川(石原 吉郎)
 石原吉郎は敗戦後、ソビエトのラーゲリにおける過酷な抑留体験をバックボーンに、「サンチョ・パンサの帰郷」をはじめとする衝撃的な詩作品で、戦後詩に一時代を劃した詩人です。その彼が晩年になって短歌を詠み始めますが、それを指して関川夏生は『現代短歌そのこころみ』のなかで、「なぜ現代詩人が晩年に至って短歌をつくったか。短歌には病んだ精神を吸引する力量があるのか。定型の不自由さのなかにこそ自由を見るのか。あるいは、遺書や辞世の文字にふさわしい本質的ななにものかを、短歌は内包しているということか」と実に厄介な問いを投げかけています。これはもちろん石原吉郎そのひとに対する問いかけなのですが、これを私じしんへ引き込んで読んでみると存外正鵠を得た問いかけになっているかもしれないな、と思ったりしたのです。もっともそれらは私のなかでいまだ漠然としていて、よどみのない回答を提示することはできない。ところで中ほどに出てくる「定型の不自由さのなかにこそ自由を見る」という指摘。文学の言葉としてはかなり美味しいパラドックスを内包しています。ラーゲリの強制された日常のなかで自由を希求し生き延びた石原が、このねじれた問いを動機づけのひとつにして短歌をつくったとしても不思議ではありません。だがそのパラドックスは私のものではない。石原のような体験を持たず晩年になって唐突に短歌を詠み始めた私にとっては、「定型」に「自由」を見るのは単なるレトリックの域を出ない不遜な考え方のようにも思えます。ではなぜ私は詩(自由な詩型)から短歌(不自由な定型)への回廊を渡ろうとするのか。詩とは異なる技法でもってする緊縛の三十一文字が幻視する凝縮された世界観へのあくがれのようなものが、詩型の不自由さ(自由さ)を越えて私を短歌に向かわせる、とカッコよく言えばなにかを言ったことになるのかな。いずれにしても大した動機とも思えないけど(笑)

 以下は歌人であり、詩人でもある中山郁子さん(面識がありませんので詳細はつまびらかではない)の作品から。ふたつの詩型を同時に生きる人。あえて解説は省きたい。この世界、おおかたは仲間褒めと凭れ合いのヒエラルキーで成り立っているとはいえ、このクオリティ、埋もれてしまうのは惜しい。



 
 うたのため恋欲ると我が言いしかば君はどうするさびしいと言え
 夢繰りの後のまひるをしずもれる父よ最もさびしき阿修羅
 昏ければ揺り燃えたたす火もなくて夜半眠らずにいる青葉梟
 海に往く途上に死にし者たちのすえと思えりひとりの我を
 目の前を通りすぎたる花神いてこの夕刻のかすかなる飢え
 青白く透き通りたる陰茎の閉じたり少年は少年のまま
 庇われて我はあらざり前線の兵士のごとく下着つけてゆく
 君を殺して詩を作ろうかぐらぐらと蟹は朱色に茹であげて待つ

歌集「スパゲティシンドローム」より(ながらみ書房)

  
 ヴォカリーズ

 死体からは石鹸の匂いがした
 もう誰も愛することもなくなった性器を
 白い布で丹念に拭いた
 安らかな死顔はおもかげとして
 幾度も顕ち現れるのですと
 看護学生に説いた
 すると愛くるしい瞳を見開いて
 学生はこう言ったのだ
 「まだ何も喪ったことがないのです」
 と
 わたくしの脳裏に野のように広がってゆく
 父の死面デスマスク
 在るということの重さと
 無いということの重さに
 等分に引き裂かれて
 心は狼煙のように空へかえってゆく
 喪うことが
 生きることだなどと
 思い始めたのはいつからであったのか
 水仙のようにまっすぐ伸びた君の肢体から
 「まだ何も産んだことがないのです」と
 恥じらうように春の気配がこぼれた。

詩集「挨拶」より(丸善名古屋出版サービスセンター)



俺に聞くなよ(短歌)

12 04, 2016
俺に聞くなよ
きのうきょう羞明ひどくあらがいて眼窩くぼみをあらう真水が痛い
そのひとの名を呼んでさよならって言って花を刎ねれば赤い血は流れる
血縁のパラドックスを脱ぎすててそれがどうした? 俺に聞くなよ
境涯をリアルにさばいたあとに喰う海辺の駅の蕎麦はのびてる

      【「短歌人」(2016年12月号)に掲載】

  俺に聞くなよ



短歌人2016年11月号より

11 27, 2016
「短歌人 2016年11月号」から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

ゆふぐれの櫛よ見しまま語るなよゆめゆめゆめに拾はれしまま(西橋 美保)
シャツを着るひとの動きのなめらかにあるいはとびきりの禍事のやう(西村 美佐子)
今日の憂さ昨日の憂さとかさなりて耳のみに聴くカルミナ・ブラーナ(三島 麻亜子)
されど夏 水際ゆけばなかぞらに小さき口もつ虫たかりたり(藤井 良幸)
熊蝉の鳴きゐるみちに入りしよりいつしかに音そのものが鳴く(角山 諭)
虚船からぶねの漂ふ沖に紅鶴を群れ渡らしむわがデカダンス(阿部 久美)
泥ひぢの汚す裳裾のあやふさに堕ちてゆくみゆ秋にゐる蝶

いずれもすべるような言葉の集積と展開に、心象を穿つ喩のリアリティは顕つ、なぁんてまるで安ぽい帯文(キャッチコピー)のようだ。どうもいまだに「一首評」とやらに馴染めない。本当に気に入った一首は、ある時間軸(わけても青春の一時期)のなかで自分の生活と深く切り結んだ記憶として残っており、今でも諳んじることが出来ます。そこに批評としての視点はありません。
  凶行の愉しみ知らねばむなしからむ死して金棺に横たはるとも(春日井 健)
  帰るとは幻ならむ麦の香の熟るる谷間にいくたびか問ふ(前 登志夫)
  ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車( 福島 泰樹)
短歌は気合で読む。その佇まいを読む。どこで自分の心象にクリンチされているかを読む。学校のお勉強の延長のような読み合いなぞは疲れる。所詮短歌も詩もアマチュアには「業余のすさび籠枕」です。家族からはボケ防止の自己啓発くらいにしか思われていない(笑) だから読むことをもっと愉しみたいわけですね。従ってこのブログの好歌選を支配しているのは、「なんだかよく分からないがオレは好きだ」という単なる短歌アマチュア的なファン心理にすぎません。

**UP後に一部加筆しました**

ワスレルナヨ(短歌)

11 12, 2016
ワスレルナヨ
ただうれてただにくさりゆくいちにちの恥を知るべし秋の暮れ方
欠落の日のひとしきりをまどろめば<蒼ざめた馬>は来て水を飲む
刺しちがう敵などおらぬ空のした鶏頭はゆれて戦後はゆれて
国家しがらみは腰の高さでふりほどけ 腰の高さ、だぜ、ワスレルナヨ

      【「短歌人」(2016年11月号)に掲載】 

ワスレルナヨ Photo by K.D.

短歌人2016年10月号より

11 10, 2016
「短歌人 2016年10月号」から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

掻い撫づる水のてのひらさゐさゐと千年くらゐはさほどにあらず(竹下 奈々子)
体内の水車がきしむ夕まぐれ首をそらせば眼に血がのぼる(有朋 さやか)
自転車にボーイソプラノの声出してどこへ行つたか老人ひとり(泉 慶章)
鼻したにうぶ毛のくらく生えてゐる女子中学生の夏を思へり(斎藤 典子)
大暑はや疲れはきざし電動のトイレの蓋に甘噛みされぬ(岡本 はな)
あやしかる宴なりけりはらはらと伽藍朽ちなむ群青の夜に(安斎 未紀)
卓上に手帳と眼鏡と名刺のせそのしづもりをみつめてゐたり(田上 起一郎)
歌の種の小箱にしまふ氷つて水の死体ね、と君の言ひしを(斎藤 寛)
立葵会釈のごとき物腰にこともあろうに女人をおもう(依田 仁美)


マンボウ(短歌)

10 19, 2016
マンボウ
宰相に顎関節症のカルテあらば痛点は一億みなさまの錯誤のなか
不覚にもスタバでそれ・ ・を口走るアカとうひとと指されたりけり
撥情装置スプリングモーターを起動する猫たちの取扱説明書とりせつが真夜中に届く
空爆のナパーム弾美しくして「What a Wonderful World」の倒錯
マンボウの肉喰めばマンボウは怒りだすモンゴルの草原はカスだと

      【「短歌人」(2016年10月号)に掲載】  但し5首目は選歌に漏れて掲載されず

  マンボウ Photo by K.D.




マンボウの肉喰めばマンボウは怒りだすモンゴルの草原はカスだと

選歌漏れの一首。連作ものとして読めば、確かに5首目は違和感ありまくりだ。<桶屋読み(風吹けば桶屋が儲かる式の読み)>を試みても前の4首まではとても届かないだろうな、多分。途中にもう何首か必要だが、それをすっ飛ばしていきなり決め球のチェンジアップを投げてみたが、外側におおきく外れてワイルドピッチになってしまったといったところかな。ときとして落語でいうところの「ドンデン」めいたことをやってみたくなるのですが、巧くいったためしがないのは遺憾です(笑)
次は友人からの改作の提案

マンボウの肉喰めばマンボウは怒りだすヤン坊の天気予報はカスだと

おお、こちらは作品中に「にわか落ち」風の解答が予め用意されていて、それなりに意味ありげな仕上がりだが、う~ん、ちょっと違うんだよな。ま、どうでもいいことだけど。


短歌人2016年9月号より

10 19, 2016
「短歌人 2016年9月号」から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

児の産めぬ齢となりて思うこと何や人ならぬものぞ生まれむと(海棠 みどり)
空梅雨はただの夏空 ほろびゆく生物相の先触れとして(勺 禰子)
短歌うたは三十一文字にして円周率3でよしとすあはれ君が代(萩島 篤)
ひたひたと奪ひゆくなり土のをわれの時間を水無月の草(宮崎 稔子)
氷水に身を緊められて白薔薇はあしたの首をかかげなほすも(春野 りりん)
海が息をするとき僕も息をする 食べたくなったラムネあんぱん(笹川 諒)
どうしようもないわたしの暗さそのものの腋に滲んだ汗もてあます(黒崎 聡美)
無いやうで有り有るやうで無いものに人は捉はれただ老いてゆく(牛尾 誠三)
人間が深く考えられるのはせいぜい数個の案件のみだ(松木 秀)
この土地に住むと定めしわけでなしふらりと見にくる河骨の花(三井 ゆき)

あづまあづまいまノドに来てわたしたち日没ばかりながめるのだね(柏木 みどり)
カイン ユダ わたしの糧にして父祖の肉体に生ふゆたかなる麦
魂のこゑのしてゐるあした母に乞ふ絶滅寸前動物図鑑
廃王の庭のしきをやすやすと口にしてほら権力のかほ
いつだって人は炎であるために祈る背に西日をうけるのだ
柏木氏の五首。全体がメタファーの塊のような作品で、「創世記」あたりを材に取ったものなのでしょうか。だとしたら私の知識の及ばないところ。そこで別の引き出しを開けて、強引にカインやノドを起点として震災で流浪する「わたし(たち)」の怖れや絶望、祈念の比喩をここから読み取ろうとしたのですが、そのココロはあまりに順接に傾きすぎているかもしれないな。読者としての自分の物語を書きやすい引き出しを開けたに過ぎないので、当然といえば当然ですが、仮にそうだとしてそのテーマで5首の制限は、作者にとっても読者にとっても窮屈でキツイ。『比喩とはイメージと想像力によって言語に新しい認識の力をあたえる手だてである以上、私たちの関心もまた、じつは言語と想像力のかかわりという大きな問題のなかにあるはずだ』(佐藤信夫「レトリック感覚」)。このことを三十一音という短い詩型のなかで成立させようとすると、前衛短歌がそうであったように読みを重視する短歌の世界ではそれなりの覚悟がいりそうですが、そのことに果敢に挑んでいるこの人が仕掛ける厄介な歌意を、気合で探るのは結構楽しいことでもあります。 (←答えになってないぞ)

湖より(詩)

09 26, 2016
湖より

湖より

ほの暗い湖の淵に流れついた
骸の一番上のボタンが 外れている
性の記憶をとどめるそれに
手を伸ばすと
生きるとは死のぎこちない比喩の
別名だとも知る どろっと溶けた

この湖はきっとどこかにつながって
やがては残酷な生の暦日の終わりに行きつく
ところで きみの絶望の深さから
だれにも知られず仮構された日々は
この先どこを漂い どこへ届くのか
きみしか知らない

骸はあふれる体液にゆらめき
一瞬ためらってのち 沈んだ
鋭く吹かれた笛に
かすかな冷気のさなさざなみが立って
遠くで今日も
朝のレガッタが始まる



帰 郷(短歌)

09 03, 2016
帰 郷
わかき日のゆめ老いしかばゆらゆらと風の村にバスは曲がりぬ
朝礼台で放尿する少年のそり身の角度に虹はたちおり
夏蔦は生家を縛してゆうやみにいきものの気配ふかくしたり
どちらさまでしょうかっておれだよおれ、認知の叔母にオレオレ詐欺めく
稲田に佇つあなたはひとのものなれば 青年の日の夏の手をふる

      【「短歌人」(2016年9月号)に掲載】  但し4首目は選歌に漏れて掲載されず 

帰郷


短歌人2016年8月号より

08 25, 2016
「短歌人 2016年8月号」から一読者として好きな歌をいくつか。
ところで好きな歌ってなんだ? 嫌いな理由は端的に説明できても、好きな理由をよどみなく説明するのは恋愛と同じでちょっと厄介です。個人的にはその歌のなかに読者としての私の’物語’が書けるかどうか、共感とはまた別のものです。

うすぐらきこころはひとに見えぬらし裏庭にきて茱萸の実を吐く(斎藤 典子)
きりぎしの上より花びら流れきて夢は夢のまま措きて帰らむ(原田 千万)
ヘビイチゴ醜くふとる雨上がり隷書に彫られわが名はとどく(三島 麻亜子)
ふりやまぬ五月雨みあげ歩きだす少女の腕にタトゥーが透ける(松村 威)
ことばひとつ掌に載せあふむけにたふれるくらいあざやかな初夏(かかり 真魚)
これの世をかすかにうつす水飲みてわれのうちなる鏡をおもふ(鈴木 秋馬)
東方イーストと呼べばはるかな殺人にふるへる朝に鶏卵を置く(柏木 みどり)
ゆふやけが暮れなづみたりいつよりを夜の貌へとかはりゆくのか(角山 諭)
いちまいの木綿のハンカチおしひらき世に伝承の諫言を聴く(柘植 周子)
あの男、この男,寄り合ひ来たり電信柱に釘を打たむと(たかだ 牛道)
猫二匹あらば「愛国」、「売国」と名付けて遊ぶ 遊民なれば(藤原 龍一郎)
自主規制その腐乱した蜜の味腐乱仏蘭西あまりに遠し

かつて藤原龍一郎氏は、西王燦氏の作品に触れたエッセイ(注)のなかで「何より、文学としての短歌を書く、という意思が、どの作品からも鮮明に感じられる。というより、西王や私の世代にとって、現代短歌を自己表現として選び取ることは、即ち短歌で文学を成立させることにほかならない」と記しています。同じく同世代の私にとってもシビれるような一文です。これが書かれたのは2009年。ここまでにすでに幾冊かの歌集をものにしている先鋭的な歌人が、おそらくは己のうちではながく自明でありつづけた命題を、あえて純情ともいえるマニフェストめいた一文にして書き起こした理由はなんだったんだろう。残すべきものと変革すべきもののなかで短歌の生理は常に新しいパラダイムを希求しますが、かといってそこにあらかじめ普遍の枠組みが存在しているわけでもありません。必要なのは表現行為を為す詠み手の個としての自立であり、覚悟であるとしたら、ミニマムな三十一音を直接そこに接続してよりおおきな情動を駆動しようとするのが「文学としての短歌」なのかもしれません。
掲歌はいずれもそんな「気分」で選択したものです(もちろん作者の意図とはなんの関係もございません)が、それにしてもこの「気分」は読みが難しい(笑) そのようなときは映画「燃えよドラゴン」でブルース・リーが吐いた次の科白を思い浮かべる。「Don’t think. FEEL!」考えるな、感じろ!。短歌の批評性とは対極にあるような禅問答めいたことばを、しかし私は侮ることが出来ない。これがなければ、本屋の片隅で眠っている歌集や詩集を手に取り、書棚とレジの間にある短い逡巡を乗り越えて、ついには財布からお安くないお金を支払ったりはしない、と思うからだ。

(注)『ゲバラ書簡集にぞ黴ー私のライバル・私の歌友ー』
プロフィール

松岡 修二

Author:松岡 修二
   
2014年より「短歌人会」所属

(記事に無関係なものなど、管理人の判断で承認外となるコメントもあります)

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